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REVIEWレビュー

美術とつながる社会をめざして

美術の力を伝える

土屋公雄僕は美術の力というものを信じています。普段美術と関わりがない人にとっては現代美術とは理解しがたい遠いところにあるものだと思いますが、美術に関わるということはそんなに難しいことではありません。僕がアートプロジェクトとして多くの人と関わりながら作品を作り上げていくことをしていくのは、美術の力というものを自分の人生の中におくことで心が豊かになるということを知ってほしいからなのです。

プロジェクト=投げ掛けであって、アートプロジェクトとは、いかに社会的文脈に介入していき他者と関わるかということが重要になってきます。アートプロジェクトと一言で言っても様々な形態があり、例えば、大阪府和泉市依頼されたモニュメントのプロジェクトがあります。これは2003年に完成した『時の知層』という作品で、プロジェクトに参加した人達に「あなたたちにとってこの町はどんな町ですか?」と問いかけ、2年間かけてその土地についてリサーチをしながら続けていきました。そのなかで、自分の庭や通っていた学校など色々な場所から土を集めて持ち寄った際に、同じ土地から全く違う何種類かの土が出てくる発見があったのです。人間は引っ越したりして簡単に移動し、自分の生まれた所で生涯余生まで暮らす人は今の時代では少ないでしょう。つまり、帰る場所というのが明確にあるわけではないのです。実はそれは人間だけではなくて、足下の土までも動いていて帰る場所を失っていたことに、このプロジェクトで気づかされたのです。そのことをきっかけに、土地の土などを10M のガラスの塔の中に積み上げ、過去・現在・未来の地層を作り上げました。プロジェクト自体は、確かに僕が依頼を受けて始まるわけですが、2週間に1度一緒に考え作業していくことで、そこに関わった人々にとって徐々に自分たちの作品になっていき、自身の体で美術の力を理解してくれている気がするのです。

時の知層
時の知層*1
他にも様々なプロジェクトがあって、2001年には東京都横綱公園に東京空襲犠牲者追悼のモニュメントが完成しました。この『記憶の場所』と題された作品は東京空襲の事実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するために制作しました。作品の内部に植えられた花々は、コンペで入賞した子供たちの構想をもとに年4回植え替えられており、アートが地域住民のコミュニケーションの媒体となることを目指したものになっています。また、2002年には東京千代田区にある丸の内ビルディングの改築にともない依頼されたモニュメントがあります。そこで制作した『M の記憶』という作品は、1923年に建てられたビルを1999年に解体した時、地下から出てきた建築を支えるための16m の松杭を利用しました。地下の中に埋められている杭と立っている杭の2本があって、地下の中に埋められている杭は1923年~ 1999年までの古いビルの年代が刻まれており、立てられている杭には2000年~ 2100年までが刻まれています。つまり、僕たちは埋められている年代のどこかで生まれて、立っている年代のどこかで死んでいく。そのような作品を作った結果、丸の内ビルディングだけのためのものではなく、現代を生きている僕たちの作品になりました。

美術を知って生きる人生と、知らないでいる人生では、知って生きていてくれた方が幸せでないかと僕は思っています。今のような時代だからこそ、美術の力がもっと社会の中に働きかけていって、人と人、人と地域をつなげていくことができるのです。美術そのものが元気を与えるのではなく、美術に関わったことで元気になっていくことができると信じています。大勢の人間と接しながら作っていくことは、僕がそうであったように、美術の力を自分の真実として受け入れて伝えていくことなのです。

自分の所在をさがすこと


記憶の場所*2
現代は、どんなことでも自分一人で出来てしまうほど便利な生活が広がっていますが、便利さを勝ち取っていくという近代が人間に与えたものは、孤独になことでした。けれども、独りで本当に生きていけるのか。人間というのは常に孤独と対峙し、その孤独を抱えながら生きているのです。僕は大学生の時に夏目漱石の『倫敦塔』という小説の中で「悲しい人間とは所在のない人間である」という言葉にぶつかりました。所在とは家という即物的なことではなくて心の内面の帰る場所であって、僕はその言葉に触発され、自分もまた所在のない人間だと感じ制作を始めるようになったのです。

僕は学生時代から旅に出るのが好きでよく一人で外国に出かけていました。旅をしながら様々な人に出会うことで、今まで自分が考えていた世界観や差別、恋愛、日本についてのあらゆる価値観というのは必ずしも絶対的ではないのだと、本当に様々な考え方があることを知ることになったのです。自分とは何なのかということを、他者をおくことによって客観的に捉え、その関係のなかで自分をもう一度見つけ出すことが出来たのです。そのように自分探しという戦いのなかで自分と向き合い続け、誰かと出会い影響を受けながら、自分がつくられていくことを身をもって体験をしました。

自分の所在について向き合うことで徐々にこぼれ落ちてくる自分の真実を一つでも多くのポケットに入れていくことが、これからの生きていくうえで大きな力を持つことになるでしょう。アイデンティティの問題は僕にとっては常にあるテーマであり、自分の価値観を探っていくことが生きていくうえで大切なことだと思うのです。

作品とは生きている証なんです

25歳頃、ドイツ旅行していた時のことですが、予定していた電車が来なくて目的地まで歩くことにしました。けれど、道に迷ってしまい目的地になかなか着けず、進み続けることに躊躇しだしました。戻るか、止まるか、進むか、の3つの選択にせまられましたが、目の前には道があるのだから歩こうと決め、前へ進んでいきました。けれども、歩いていくうちに日が暮れ、山の奥に入っていき、気温も低くなって不安になりながらもさんざん歩いたあげく、やっと1つの灯りを見つけることができたのです。それは羊飼いが羊をおろすための小屋でした。その時、歩いて行くとどこかに着く、という僕にとっての真実一つを見つけたのです。自分は美術をやりたくて、でも、何を大切にしていけばよいかわからない時期のことでした。比喩的になるのですが、僕が今どこに向かって歩いているかわからないけれど、とにかく歩けばきっといつか誰かに出会えることだけはわかったのです。そのことは自分の道を探していた20代の僕をかなり支えた真実でした。

そして、その旅行から帰ってきて、リチャードロングというイギリスの作家の展覧会を見た時、ここにも歩いている人がいたのかと深く興味を持ったのです。リチャードロングは歩くことをコンセプトとして、世界中を歩き自分が歩いた所を記録して発表している作家ですが、彼の作品と出会いそして彼自身と出会ったことは、美術をやっていく決意を僕に与えてくれました。彼はなぜ歩くことを記録するのか、それは生きているからなのです。自分歩いた結果、彼は生きている「証」として作品を残していました。それに気づいた時、美術とはこうでなければいけない、ということが僕の中で壊れ、作品というのは生きている痕跡なのだと理解できたのです。「表現」という言葉は、表に現すと記すけれど、つまり自分が生きていることを自分以外の人に向けて表せばいいと正直に受け入れることができました。

自分はどういう表現をしていけばよいかは具体的にはわからないけれど、とにかく自分の得意な形でそのことを表していけばよいのであって、ようやく美術を自分の正面おいて生きていけるかもしれないと思うことができたのです。初めは美術というものが何だかわからなかったのだけれども、旅行での歩き続けた経験やリチャードロングの作品に出会えて、少しずつ頭ではなく体から美術とは何かということを理解していきました。そして、僕は32歳でイギリスのチェルシー美術大学大学院に入学する決意をしました。美術が生きていく元気を与えてくれることを信じ、僕は表現と向き合う旅を続けるようになるのです。

流木から廃材への移行


沈黙*3
初期の作品は、必要とされなくなった木材や流木を使って制作していますが、流木といっても自然木は一切使っていません。すべて、人間が一度関わって捨てられた物語のある木々を使用しています。東京湾に打ち上げられた流木です。流木というものは、例えば家の材料などに利用されるために山に生えていた木が人間によって切り倒され、家の一部として生活を支え、結局は解体されると夢の島などに捨てられ、そのうちのいくつかを僕は拾い集めて作品の材料にしていました。東京湾には生活に関わるすべての物が打ち上げられていて、家具だけではなく、位牌や義足までも捨てられていて、人間は大量物を生産し消費していくのだけれども、それは単なる物だけではなくて人間も同じように捨てられるのではないかという思いがあったのです。流木を集めている中、見るからにボロボロの漂流してきた自然物を切ってみると、真っ赤な年輪が出てきました。それは自然界がそんなに簡単に命を簡単に粗末にするなっ、と打ち返してきている気がしたのです。現代社会が排除し、自然界が飲み込めずに吐き出した物 を拾い集めて積み上げていくことで人間のあり方を問うような作品を作っていました。


兆*4
その後、日本で家が壊される光景を見始めるようになりました。戦後、昭和40年代以降はマイホーム主義という形で家が大量生産で作られていくのですが、そこで建てられた家の耐久年数は20年から30年といわれ、ちょうど建て替えられ始めてきた時期に、社会では家族崩壊の問題が取りざたされていました。僕には外側がそんな簡単に壊されてしまうのであれば内側も同じではないか、外側と内側というのは表裏一体であって、家も家族も壊れてしまうように思えました。それは、自分の家族に置き換えてみても他人事ではありませんでした。家具や電化製品のように家までも消費サイクルが速くなっていき、家族までも再生できないまま壊されている。あるいは、都市における孤独な生活環境のすべてが象徴されているように思えた。だから、僕は家を解体し始めたのです。ここから作品の材料が流木から廃材に変わっていきました。

僕は今までに24軒の家を解体し廃材による作品を数多く制作してきましたが、その最初の作品は1990年制作した1軒分の廃材を半円型に重ね合わせていく『沈黙』という作品でした。引っ越しする際に、荷物をそのまま残して出ていってしまうと、誰が住んでいたか知らない赤の他人である僕でも、その家の家族構成がわかってしまうのです。人が不在になった家にあらゆる物が置き去りにされてしまっていて、そういうものを拾い集めながら作り始めるようになりました。心の拠り所である家に使われていた資材は付加価値を背負わされ、それらは解体されることによって、逆に所在が剥奪されたのです。けれども、その廃材の欠片には人の記憶が刷り込まれていて、時代とその時代を生きた人間の所在を確かるように廃材は積み上げて制作をしていきました。

目に見えないもののリアリティ―父親の存在


不在*5
灰を使う作品は1992年の『不在』という作品からが始まりました。これは、住む人がいなくなった家1軒分の廃材を燃やし灰にして、それを家の形をしている磨りガラスをはめ込んだ鉄枠に入れた作品になります。灰は、建材の種類の違いによって白から黒まで鼠色のグラデーションを描き積み重なっていました。このように灰の素材を扱うようになったのは、父親の死がきっかけにあります。僕にとって父親というは、僕が美術の世界に入ることを反対しいつも喧嘩をしていたので、苦手な存在でした。けれども、父親が亡くなり、真っ白なただの灰になって自分の父親が形も何もなくなってしまったのを見た時、今までは単に灰だと思っていたものが、地球上に存在しているすべての物質は燃え尽きると木も家も人間もすべてこの白になることを実感したのです。それを感じてから僕にとって灰が特別なものなっていきました。灰を使う作品は1992年の『不在』から数多く制作していて、よく死をイメージしていると言われたりするのですが、そうではなくて逆に生の象徴なのです。僕は再生の姿として灰を使い表現をしているのです。


大洪水の後で*6
僕は父親とは生前に向き合うことをしてきませんでした。だからこそ、自分の記憶や所在を考えるうえできちんと整理しなければいけないと思い、『大洪水の中で』という時計商を営んでいた父親にまつわる作品を制作したのです。子供の頃、家の中には修理をした振り子時計がずらりと壁に並んでかけられて、その大量の時計が毎日9 時になると一斉に鳴りだすのですが、その状況を記憶から掘り起こし制作しました。この作品を作ることで父親と向き合うことが出来るようになった気がしています。人間の死というものを、僕は人の形が無くなっても心の中では生き続けられると捉えているのです。父親を亡くしてからの方がよく思い出したり語りかけたりして、僕の中に居る気がしています。それは僕自身が父親を僕の中に座らせたからなのです。生きているとか、死んでいるってなんだろうと考えました。目に見える世界だけで世の中に存在しているわけではなくて、目に見えない世界もあるはずだと思っています。目に見えない世界が目に見える世界を支えているとするならば、今の僕を支えているのはまさに、目に見えない世界なのです。目を閉じた時に、初めて感じるリアルを僕は信じているのです。

今の時代を生きること


海抜ゼロ/波紋*7
僕も50歳を過ぎ、確実に死に向かって歩いていくのは間違いないのです。一番初めに親が亡くなり、そして家族がいなくなる。今まででしたら、親にあらゆることを聞けたのに聞けなくなってしまった。逆に、自分自身がそのように子供たちに問われる立場になったのだけれども、答えられているかというとそうでもなく、心は揺れ動いている。結局、未だに不動の絶対的な価値は見えてきてはいなくて、それは僕だけの世代や精神年齢の問題ではなく、実は今の時代、そういう不動の価値が壊れてしまっているのだと思うのです。神話や政治などが目の前で壊れていっている時代の中で、今まで信じていたものと新たに信じようとするものがあり、相反する2つのものを自分の中に持ちながら、引き裂かれるような思いとともに生きています。そのように自分たちを取り囲んでいる状況が不確定になっているけれども、まさにその洪水のような情報の中で、自分の価値観を作り上げようという意志をもってほしいのです。「表現」とは美術に限ったものではなく人間にとって本質的な欲求であり、社会のあらゆる側面を表現活動の対象とし日常や他者との多様な関係性に連動することは、表現を新たな想像の領域へ広げて深めることだと信じています。

*1
"時の知層" 2003年 和泉シティプラザアートワーク(大阪)1020×180×180cm 参加型のプロジェクトによって、作られた広場のシンボル。近辺の土や、幼児たちの粘土作品などが積載され、「過去・現在・未来」の地層となっている。
*2
"記憶の場所" 2001年 東京空襲犠牲者追悼・平和モニュメント photo: 桜井ただひさ 直径24メートルほどの円形の敷地の半分を石で盛り上げ、扇形の斜面を覆う花は生命を象徴している。また、碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々のお名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められている。
*3
"沈黙" 1990年 300×580×100cm photo: 山本糾 初めて解体した1 軒分の家の廃材用いて扇状に素材を積み重ねていった作品。
*4
"兆" 1987年 370×200×500cm 切られた街路樹の枝を拾い集め、会場にてインスタレーションした作品。
*5
"不在" 1992年 140×120×165cm 家の廃材を燃やしてすべてを灰にし、それを家の形をした鉄枠に入れた作品。
*6
"大洪水の後で" 2002年 2500×10000×10000 mm 子供の頃の記憶をたよりに父親のことをテーマにした作品。
*7
新潟市で今夏から行われる「水と土の芸術祭」に出品する『海抜ゼロ/波紋』野外プロジェクトのためのドローイング。水中に波紋を起こす装置を作り、水面の高さまで人が入れる通路を設置し、海抜0m を体験する。「水と土の芸術祭2009」 2009/7/18 ~ 12/27 http://www.mizu-tsuchi.jp/

武蔵美通信 掲載記事

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